さよならいいこ

私は私だもの

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思いやり断捨離

人を思いやることにすっかり疲れました。

世の中にはとにかくたくさんの人が居て、その全部を思いやっていたら自分を思いやる時間がなくなってしまうのです。

 

だって究極「私は幸せ」と書くだけで不幸な人に刺さったり、世の中そんなもんなわけで。生きるって自分のために人を切り捨てることだなって思います。

「私を殺す世界を殺せ」がモットーです。

 

じゃあせめて身近な人だけ誠心誠意思いやればよいではないかと思っても、実際やってみると結局自分なりに思いやっているだけではダメだなという結論に至りました。

 

相手が何に対して愛情や思いやりを感じるかをごちゃごちゃ言わずよく洞察した上で、それに届く行動を積み重ねるという行為でしか基本思いやりは届かないのです。

 

でもなんかそれ、行き着くところはただのサービス営業じゃん。

 

そう思う私はきっと本当に、もとからてんで思いやりというものを持ち合わせていないのです。接客業がお客様に感動を与えたがるたび、感動の行き着く先は「当たり前」であり期待値の上昇でありつまりそれは未来のクレームであると本気で思っている人間です。

 

ただ自分が好きだと思った人がそれを私に求めるのなら、期待に答えたかったなと、無理に気遣って夢を見せたところで、私は本当は思いやりなど持ち合わせていない人間で、いつかきっとそれはバレるのです。

 

だから私に思いやりを求めた人は結局悲しむのです。

どれだけ悲しい顔をさせたくないと思ったところで私に思いやりはなくて、ないものはどう頑張っても出せないのです。

 

だから最近は期待値の低い人同士で付き合うのが居心地が良いです。

求め合わない人生はさみしいですか?

寂しいからそもそも求め合うのだもの、ならせめてできるだけ長く求めて寂しい時間を減らせるように、期待値を下げて独りよがりな自分の定義で与え合おうよ。

 

それでときどき笑ってくれたらそれは嬉しい。

たとえその笑顔が、私になんの期待もしていないからこそもたらされたものであったとしても、強い思いから来る愛ゆえの悲しい顔より、自分のことしか考えていない独りよがりな笑顔に私は癒されたりするのです。

 

 

ブログが。。4年目。。。

祝! 云周年!

いつも読んでくれてありがとう!

 

みたいなことを言っていられるのはブログ開設2周年ぐらいまでである。

 

もう4年目になってくると祝というより呪、あの頃みずみずしかった自身の成長やブログを通して生まれた人間関係も見事に停滞し、ただ昔よりいかつくなった自分が惰性でネットを漂っている。

そんなわけで一度書かなくなったのになぜゴミを書きに戻ってきたのか、私自身が一番自分に問いながら書いている。なんでだろうね?

 

過去のブログ収入、未来の恥である。

たくさんの黒歴史をネットに残したまま修正・消去のためにその記事を開くのもパンドラの箱気分で怖く、自分を隙なくセルフブランディングするには人生マネタイズしてブログを作り物にする覚悟もなく、ただただ宙を漂っている。

 

そりゃあさあ、つねに記事書くたんびに有益だったり目立つ人生送ってないって。

 

読まれる前提で文章書いてりゃ書きたくないこと増えてって気安く日記なんざ書けなくなるって。

 

じゃあ何書くためにお前残ってるんだ。こういう言い訳か。

 

ピアノと一緒でたまに書きたくなるみたいな、そういう癖みたいになってきてんでしょうね。

習慣というより習性。

4年続くために気をつけたこととかべつにないです。

べつに続く必要もないと思っています。

 

ただなんか、なんやかんや書いたもの読んでもらえると嬉しいです。

つんでれ。うるさいやい。

 

 

 

 

 

 

「縁があれば」じゃなくて傷つきたくないだけでしょ

結婚観を聞いてみると「縁があれば」という言葉をよく聞きます。

しっかりした人に多いです。まあそうだよね。

誰でもいいからって闇雲に結婚を急いでも、3組に1組が離婚するこのご時世、幸せになれるとは到底思えないものね。

 

ただ引っかかることがあって。

「縁があれば」を口にする人に私はある共通点を見出したのです。

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それは、人一倍「傷つきたくない」。

人間関係に壁を作ってみては悩み、たまに偽りの笑顔を解いてみたり、「縁があれば」を口にする人々はとにかく傷つくことに非常に敏感なのです。

 

ただ、結婚っていわば究極の人間関係では?

傷つかず良い結果を得ようとしたって、そりゃあ縁なんてあるわけなかろう。

 

だからこういう人たちは「縁があれば」と言い続け、たいていそれからずっと縁なんて訪れないのである。

いや、厳密には縁はいつも回転ずしのように目の前を流れているけれど、彼らには掴み取る元気がないのである。

 

最近、一人一人の人生や考え方、本当は心細い不安の影とか、手を伸ばして見つめれば、人はいかようにも私への接し方を変えてくれると感じます。

ただこれにはかなりの気力が必要で、しかも割と頻繁にめちゃくちゃ傷ついたりもするのです。

 

いろんな娯楽があふれていて、労働時間はたいてい長くて、一人でもそんなに不自由しない時代です。だから傷つきたくないと殻にこもるのも、一つの賢い選択であると思います。

 

ただひとつ、「縁があれば」ではなく「傷つきたくない」と答えられる勇気があれば、その人の未来は今よりきっと本当にほしいものに溢れるのではないかと私は感じるのです。大きなお世話ですが。

 

ちなみにかく言う私もいまだ独身です。結婚? 縁があれば(笑)

いやー傷つきたくないね。寂しいなんて泣くよりも、自立ぶって淡々と過ごす方が板についてきてしまったね。

 

ただ私、自分が傷つけたり誰かのために傷ついたこと、必要で尊くて忘れたくないなって思っています。

たとえもうこれ以上傷つく元気なんかなくてもね。

 

 

弱さを出していく練習

最近できるだけすぐに

「もー無理ー」とか「もうやだー」とか言うようにしています。

実際はちょっと不快であったりだるいだけで一人でなんとかすることぐらいできるのですが。

 

ネットでこればかりやったらただのメンヘラかまってちゃん、慰めという名のクソリプ烏合の衆に取り囲まれ非常にだるいことになるので、私生活でね。一対一の人間関係において。ひとりずつに弱さを出していく。

 

受け止めてもらえなくてもいいんです。人のことを期待とか信用なんてできないままでもいいと思うんです。どうせいずれひとりで抱えて自立してるぶって処理しようと思っていたことに「弱音を吐く」という作業を一手間加える。一人一人の相手はその練習台であれば良いのです。そういう感覚でいれば受け止めてもらえなくてもそこまで傷つかずに済むし、たまに受け止めてもらえると、ハンパなく感謝の気持ちがこみあげてきて、その人との関係がまたひとつ深まって豊かになるのです。

 

勇気なんて出さなくていいんです。「弱音を吐く」という余計な作業をただ淡々と日常に加えたあと、誰も受け止めてくれないことを確認してから自分で処理すれば良いのです。そうすると案外たまに、受け止めてくれる場所はすぐそこにあったんだなぁって気づくこともある。私が踏み出さなければ決して気づくことのなかった世界。

 

人生どうにもならないことが積み重なり過ぎると、とりあえず我慢して淡々と処理していく習慣がついてそのうち我慢とかの感覚もなくなってしまうものですが、それってやっぱりどうしても辛いんよなぁ。

 

辛いことを辛いと捉え続けられる強さがないと、いずれつぶれてしまうと思うので、そのための練習として、私は最近こういった習慣を取り入れています。

 

 

人柄で勝負するのも難しい

 

本当にその通りだなぁと思いました。

そして、人柄も能力のうちだよなぁとも思いました。

 

私は最近仕事がとても楽しいです。

優しい先輩方のおかげです。

 

去年はプライベートで泣きたいようなことが続いて、それを引きずってしまったせいで一頃あまりきちんと業務を果たせていなかったように思います。

 

そんなときも先輩方は文句も言わずフォローしてくれて、責めずに静かに問題点だけ指摘して、どう治していくのかを一緒に考えてくれたんですね。

 

本当に申し訳なくて、自分の辛いことで頭がいっぱいの中でも、これ以上にいい職場はないんだからここでやっていこう、もっと歯を食いしばってがんばろうと思いました。

 

がんばらなくちゃ、じゃなくて、がんばろうと思ったんです。

これ以上にいい職場はないと誰かに言われたわけじゃなくて、私が思ったんです。

 

このことが、とても大切だなと思いました。

その後、実際に私に後輩ができてみて、人の問題点を責めたり「やる気を出せ」「仕事とはこうあるべき」、と押し付けることは簡単だけれども、人のやる気が出るのを待ったり引き出したりすることはとても難しいと感じました。

 

親切にすることは意外と難しいのです。

「○○してやったのに」という気持ちが少しでも芽を出したら、その瞬間にそれは親切ではなくなるからです。

 

根っからの親切な人というのは、それだけでそれが才能であり、能力なのです。

私にそれがないのなら、ないなりに最大限やっていく方法を考えなくてはならないと思いました。それは、

 

  • 否定しないこと
  • 「我関せず」を徹底すること

 

です。

 

「もっと仕事できるようにならなくちゃ、親切にしなくちゃ。」

 

そういう勤勉な思考は「あれもこれもまだできていない」という自己嫌悪に繋がり、そのうち努力せずのほほんとして見える他人を「どうして」と責めるようになり、結果的に周りに「情緒不安定」と映るようになります。

 

会社員としてみんなで仕事をしていく上で、情緒不安定というのは一番迷惑だと思うんですよね。

仕事ができないより不親切より何より、情緒不安定が一番困る。

上手くやろうと思ったがゆえに結果的に一番迷惑になってしまっては本末転倒です。

 

人の数だけ働く理由はあって、自分から見て怠慢に見えるからと言ってその人が本当に怠慢とも限らないし、もし仮にそうだったとしても、会社判断でその人は居た方がよいとなっているから所属して私と働いているのです。

一社員である私がどうこう騒ぐ話ではありません。

 

私も週5日も働いていれば調子や機嫌が悪い日もあります。

でもそこで「否定しない」「我関せず」を徹底するだけで、テンションは低くても毎日確実に情緒を安定させることができるのです。

 

仕事の出来も親切も、プラスアルファで余裕があってやりたいときにやればいいのです。

なぜならただの会社員なのだから。

 

そんなことより無理をしてマイナス、情緒不安定を叩き出さないこと。 私はこれが大切だと思っています。

 

本音を言えば否定したくなることもあります。

でもそこにメリットはないのです。

否定したくなることがあまりにも多いなら、辞めるなり転職するなりすればいいだけの話なのです。なぜならただの会社員なのだから。最後に重ねて言います。

 

  • 否定しない
  • 我関せず

 

そのためには、自分がそこに居る目的をハッキリさせておくこと。

私も至らないことだらけですが、せめて仕事中ぐらいはこれを徹底して心がけていこうと思います。人生規模でも目的ハッキリしたらそれが一番いいんですけどね。

 

 

 

 

「失った分だけ新しいことが」と言うけれど

新しいことが手に入らなかったら、失って落ち込んだことに意味はないのでしょうか。

失うべくして失ったのなら、断捨離としてスッキリしてさっさと次に行くことが健全なのでしょうか。

 

私は立ち止まったり振り返ったりする時間や痛みを捨てたくないと思っています。

美化のし過ぎは良くないけれど、検証不足や自分とはちがう視点を切り捨てたまま次に向かうということは、どうにも似たことを繰り返すだけになってしまうような、あるいはそれだけならまだいいけれど、中途半端に自分にトラウマを作ってブレーキをかけることにもなりかねないと思うのです。

 

強がらずに生きるって難しい。

弱さを認めるって怖い。

それでもそれ以上に、強がる人の背中を好きになれない自分がいるから、

そして私があのとき傷つけたあの人はきっともっと痛かったのかもしれないと思うから、

私は失った事実を切り捨ててまで次になんて行きたくないと思ってしまうのです。

失う前に気づけばよかったのにね。それも含めて、私だとしたら。

   

Time after time~花舞う街で~

Time after time~花舞う街で~

 

 

出会って失って、それだけでも経験できてよかったと心から言い切れるだけの器があったなら、きっと失ったりなんかしなかったのでしょう。

こんなに落ち込むほど愛せてよかったと言いたいところだけれども、愛しきれていなかったから失ったのだろうなと、ただただ振り返らずにはいられないのです。

後悔を通して、変われる私と変われない私を認識するのです。 

 

だってべつに、スッキリ気持ちを切り替えるために生きているわけじゃない。私はただ私のまま、

 

「こんなとき、あの人ならこう言っただろうな。」

 

という面影を増やしていくことが、生きるということなのだと近頃思います。

 

でもそうね、新しい出会いが全てではないけれど、面影じゃなくてずっと一緒に居られる誰かに、いつか出会って大切にできるだけの私になりたいです。

 

 

人間関係とか恋愛とか結婚とか

去年は散々な一年でした。

大切だった、親しい人と何人も立て続けにすれ違って、そのたびに私が今まで頑なに守ってきた自分らしさみたいなものを乱雑に引っ剥されたみたいな一年でした。

あるいは私も、すれ違いざまに相手のそれを散々引っ剥がしてしまったのかもしれません。

 

身勝手、自己中、わがまま、思いやりがない

 

そう言われました。その通りです。

それでもなおそんな自分を変えられない、どうしようもなく身勝手な人間です。

 

結婚の話だって色恋だって、今まで全くなかったわけじゃないのです。

理屈で自然にしているのが一番と思ったところで、現実は毎日どこか物足りなくて、失った心が寂しくて、いつ誰と結婚した方が、これからどうした方が、自分は、自分は、自分は、自分は。

 

誰かを好きとか大切とか言いながら、結局私はこの期に及んで自分のことしか考えていないのです。そういう自分が嫌になって、また自分自分自分。

 

うまくいかなかった人間関係をどうすればよかったんだろうと悔やんでは、自分のことばかり庇ったり責めたり、本当に自分ばかりで、だからうまくいかなかったと、そういう自分を変えれば上手く行くことは多かったろうし、これからもそうなのかもしれないと思いつつ、変えるなんてそれはちょっと無理があって。

 

そのくせ自分は、他人の変えられない部分を変えようとしていたんじゃないかと、それが親しい人への甘えとか愛とか言うなら、そんな愛なんてない方がよかったんじゃないかとか、あるいは私は変わる必要なんかなかったところで、誰もそんな私を受け止める必要なんてないのだと当然のことに今更気づいたり、とりあえず今これから、どう生きれば私は幸せになるのだろうと、考えがまとまらなくて。

 

ソラニン

ソラニン

 

  

そんな私にある日、恩師が言いました。

たまたま、久しぶりに連絡を取ったのです。

 

かつての会社の上司。

正社員がいかに恵まれているかとか、働きたくないなら若いうちに結婚をとか、そういう、世代とか考えが古いけど、親切で愛情深い人。

 

私が会社を辞めるとき、誰よりも心配して、寂しがって、けれど最後は誰より信じて見送ってくれた人。

あの人がいなかったら、私は2年もあの会社にいられなかった。

 

毎年、年が明けるたびに私は挨拶がてら彼に近況を話すのです。

それすら面倒と思う年も正直たまにある私は本当に身勝手で、でも、最終的にいつも、挨拶したいと思うのです。

 

去年あんまりいろいろありすぎたから、今年はちょっと、ふと、弱音をこぼしたのです。

 

「愛して愛されて適齢期に結婚、なんて難しいです。なら片方どちらを取れば自分は納得できるのか、そもそも愛って何、みたいな。焦ると良くないんでしょうけどね。」

 

なんとなく、一緒に働いていた頃、上司は休みに引きこもってアニメばかり観ていた私に「さっさと結婚しろよ」と冗談めかしながらいつも心配していたから。

そして近年は私自身も結婚を意識しだして、それが叶わなかったことが自分でも心配になってきてしまったから。

うしろめたさとか心細さがあったのだと思います。

 

そんな私に、彼は言ったのです。

 

「そのことは、自分らしく、でいいと思うよ。」

 

シンプルな一言を、かつてと変わらない様子のあなたが、かつてと少し変わったようなことを言って。でも、やっぱり変わらない。

 話していたら、昔に戻ったみたいで。

 

このまま居たら独りになってしまうの?

街を出ていったのは、連絡を取らなかったのは、独りになったのは、目先の去ったことばかり見ていたのは、私で。

気づいたところで毎日はすぐには変わらないし、私は頼りない私と生きていかなければならないのだけれども。何を選べば良いのかなんて今でもわからないけれど。

 

 

 

拝啓 

私はニートになってもシェアハウスに住んでも再就職してもシェアハウスを出ても、相変わらず忘れっぽくてそそっかしくて大雑把で頑固で顔に出やすいです。

 

また来年連絡が取れるように、とりあえず今年も東京でがんばります。

忘れないように、ここにも書いておくんだ。

ありがとう。