さよならいいこ

アロマ・ハーブ・思ったことなど

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インフルエンザになりたい

退職届を出してから早数週間。

私の穴を埋めるべく求人募集をかけるも一向に連絡はない。

 

そして私は、職場の規定で辞めるのになんと3ヶ月も要するらしい。

 

 

なんで非正規社員の退職ごときに3ヶ月もかかるんじゃああああああやってられっかああああえええええいあああ君からもらい泣きアアアァァァァァアア!!!!! 

 

もらい泣き

もらい泣き

 

 

 

もう本当にだるい。面倒くさい。行きたくない。辞めたい。

職場は好きだった。好きな仕事に携われて幸せだった。人間関係もいい人たちばかり。でもさ。.

 

好きだったけど決定的に合わない部分があるから泣く泣く別れを切り出した彼女に何度も何度もネチネチネチネチあれこれすがられたら一気に冷めるじゃん? そういうかんじ。

 

けれど情があってお世話になって感謝もしているのでなんとか円満退社にしたい。が、いくらなんでも3ヶ月は長すぎる。人手が足りないせいで有休も取れないってどういうことや。

 

だから。そこで。私は。願うの。

 

 

インフルエンザになりたい。

 

 

最近何かをこぼしたりなくしたりフラつきがひどい(もとからだったかもしれないけど)。とにかくもう休ませてほしい。辞めさせてほしい。私達の関係はとっくに終わったんだ、わかってくれ。

今日の昼、会社の保健室で熱を図ったら37.4度だった。惜しくも帰してもらえなかった。体調悪げな演出のため目の下にアイブロウを塗ってみたり、マジでめまいがしたり、もう仮病なのかマジなのか自分でも最近わからなくなってきている。

 

今夜も平熱を信じたくなくて、何度も体温計をピッピとはかっている。

36.5度ばかり出る。

 

負けないこと、投げ出さないこと、逃げ出さないこと、信じ抜くこと。ダメになりそうなとき、それが一番大事。

そう信じぬいて、たぶんもうこれ測るの5回目。

 

あっ、また36度代。次!

 

それが大事

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運動不足なので予備自衛官になりたい

いやーーーーー運動不足。

昔から運動音痴ゆえに一向に動かない子どもだったんだけど、このままでは加齢と共にいろいろと問題が出てくる。

体型とか健康とか諸々たぶんこれからやばい。今も姿勢悪いし。姿勢悪いとかわいくないし。

 

やらなきゃいけないことはわかっている。しかしもともと好きではないことを自発的に続けることは非常に厳しい。私は何かを成し遂げる自分に達成感とかを覚えるタイプではない。

 

ではジムに通うか。しかし金がかかる。ヨガでもピラティスでもボクシングでも、体が動くならなんでもいいしどうでも良いのだけれども、高い。何が悲しくて好きでもないことに義務感だけで月1万。年間に換算してみろ、10万超えだぞ。

 

そ・こ・で。

見つけたのが予備自衛官!

タダで運動できるどころかお金までもらえちゃうゆえに、3年のうちに50日通えばいいらしい、意外とゆるい。

(※ざっと調べただけなので間違ってたらごめんなさい)

 

コスパ最強だね!!

 

有事のときには出兵らしいけど、日本で予備自衛官が駆り出される事態ってもうそれ終わりだろ感あるので、まずそんな日は来ないと思う。というかね。そしたら私も個人的に有事なので辞めます、みたいなねw えっ、そういうのダメ?

 

会社辞めて失業保険もらいきったら予備自衛官応募してみようかと本気で思っています。落ちてもタダで健康診断受けれるし。

マジでこれ良くね?

 

自衛隊 予備自衛官補採用試験

自衛隊 予備自衛官補採用試験

 

 

 

 

 

思いやり断捨離

人を思いやることにすっかり疲れました。

世の中にはとにかくたくさんの人が居て、その全部を思いやっていたら自分を思いやる時間がなくなってしまうのです。

 

だって究極「私は幸せ」と書くだけで不幸な人に刺さったり、世の中そんなもんなわけで。生きるって自分のために人を切り捨てることだなって思います。

「私を殺す世界を殺せ」がモットーです。

 

じゃあせめて身近な人だけ誠心誠意思いやればよいではないかと思っても、実際やってみると結局自分なりに思いやっているだけではダメだなという結論に至りました。

 

相手が何に対して愛情や思いやりを感じるかをごちゃごちゃ言わずよく洞察した上で、それに届く行動を積み重ねるという行為でしか基本思いやりは届かないのです。

 

でもなんかそれ、行き着くところはただのサービス営業じゃん。

 

そう思う私はきっと本当に、もとからてんで思いやりというものを持ち合わせていないのです。接客業がお客様に感動を与えたがるたび、感動の行き着く先は「当たり前」であり期待値の上昇でありつまりそれは未来のクレームであると本気で思っている人間です。

 

ただ自分が好きだと思った人がそれを私に求めるのなら、期待に答えたかったなと、無理に気遣って夢を見せたところで、私は本当は思いやりなど持ち合わせていない人間で、いつかきっとそれはバレるのです。

 

だから私に思いやりを求めた人は結局悲しむのです。

どれだけ悲しい顔をさせたくないと思ったところで私に思いやりはなくて、ないものはどう頑張っても出せないのです。

 

だから最近は期待値の低い人同士で付き合うのが居心地が良いです。

求め合わない人生はさみしいですか?

寂しいからそもそも求め合うのだもの、ならせめてできるだけ長く求めて寂しい時間を減らせるように、期待値を下げて独りよがりな自分の定義で与え合おうよ。

 

それでときどき笑ってくれたらそれは嬉しい。

たとえその笑顔が、私になんの期待もしていないからこそもたらされたものであったとしても、強い思いから来る愛ゆえの悲しい顔より、自分のことしか考えていない独りよがりな笑顔に私は癒されたりするのです。

 

 

ブログが。。4年目。。。

祝! 云周年!

いつも読んでくれてありがとう!

 

みたいなことを言っていられるのはブログ開設2周年ぐらいまでである。

 

もう4年目になってくると祝というより呪、あの頃みずみずしかった自身の成長やブログを通して生まれた人間関係も見事に停滞し、ただ昔よりいかつくなった自分が惰性でネットを漂っている。

そんなわけで一度書かなくなったのになぜゴミを書きに戻ってきたのか、私自身が一番自分に問いながら書いている。なんでだろうね?

 

過去のブログ収入、未来の恥である。

たくさんの黒歴史をネットに残したまま修正・消去のためにその記事を開くのもパンドラの箱気分で怖く、自分を隙なくセルフブランディングするには人生マネタイズしてブログを作り物にする覚悟もなく、ただただ宙を漂っている。

 

そりゃあさあ、つねに記事書くたんびに有益だったり目立つ人生送ってないって。

 

読まれる前提で文章書いてりゃ書きたくないこと増えてって気安く日記なんざ書けなくなるって。

 

じゃあ何書くためにお前残ってるんだ。こういう言い訳か。

 

ピアノと一緒でたまに書きたくなるみたいな、そういう癖みたいになってきてんでしょうね。

習慣というより習性。

4年続くために気をつけたこととかべつにないです。

べつに続く必要もないと思っています。

 

ただなんか、なんやかんや書いたもの読んでもらえると嬉しいです。

つんでれ。うるさいやい。

 

 

 

 

 

 

「縁があれば」じゃなくて傷つきたくないだけでしょ

結婚観を聞いてみると「縁があれば」という言葉をよく聞きます。

しっかりした人に多いです。まあそうだよね。

誰でもいいからって闇雲に結婚を急いでも、3組に1組が離婚するこのご時世、幸せになれるとは到底思えないものね。

 

ただ引っかかることがあって。

「縁があれば」を口にする人に私はある共通点を見出したのです。

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それは、人一倍「傷つきたくない」。

人間関係に壁を作ってみては悩み、たまに偽りの笑顔を解いてみたり、「縁があれば」を口にする人々はとにかく傷つくことに非常に敏感なのです。

 

ただ、結婚っていわば究極の人間関係では?

傷つかず良い結果を得ようとしたって、そりゃあ縁なんてあるわけなかろう。

 

だからこういう人たちは「縁があれば」と言い続け、たいていそれからずっと縁なんて訪れないのである。

いや、厳密には縁はいつも回転ずしのように目の前を流れているけれど、彼らには掴み取る元気がないのである。

 

最近、一人一人の人生や考え方、本当は心細い不安の影とか、手を伸ばして見つめれば、人はいかようにも私への接し方を変えてくれると感じます。

ただこれにはかなりの気力が必要で、しかも割と頻繁にめちゃくちゃ傷ついたりもするのです。

 

いろんな娯楽があふれていて、労働時間はたいてい長くて、一人でもそんなに不自由しない時代です。だから傷つきたくないと殻にこもるのも、一つの賢い選択であると思います。

 

ただひとつ、「縁があれば」ではなく「傷つきたくない」と答えられる勇気があれば、その人の未来は今よりきっと本当にほしいものに溢れるのではないかと私は感じるのです。大きなお世話ですが。

 

ちなみにかく言う私もいまだ独身です。結婚? 縁があれば(笑)

いやー傷つきたくないね。寂しいなんて泣くよりも、自立ぶって淡々と過ごす方が板についてきてしまったね。

 

ただ私、自分が傷つけたり誰かのために傷ついたこと、必要で尊くて忘れたくないなって思っています。

たとえもうこれ以上傷つく元気なんかなくてもね。

 

 

弱さを出していく練習

最近できるだけすぐに

「もー無理ー」とか「もうやだー」とか言うようにしています。

実際はちょっと不快であったりだるいだけで一人でなんとかすることぐらいできるのですが。

 

ネットでこればかりやったらただのメンヘラかまってちゃん、慰めという名のクソリプ烏合の衆に取り囲まれ非常にだるいことになるので、私生活でね。一対一の人間関係において。ひとりずつに弱さを出していく。

 

受け止めてもらえなくてもいいんです。人のことを期待とか信用なんてできないままでもいいと思うんです。どうせいずれひとりで抱えて自立してるぶって処理しようと思っていたことに「弱音を吐く」という作業を一手間加える。一人一人の相手はその練習台であれば良いのです。そういう感覚でいれば受け止めてもらえなくてもそこまで傷つかずに済むし、たまに受け止めてもらえると、ハンパなく感謝の気持ちがこみあげてきて、その人との関係がまたひとつ深まって豊かになるのです。

 

勇気なんて出さなくていいんです。「弱音を吐く」という余計な作業をただ淡々と日常に加えたあと、誰も受け止めてくれないことを確認してから自分で処理すれば良いのです。そうすると案外たまに、受け止めてくれる場所はすぐそこにあったんだなぁって気づくこともある。私が踏み出さなければ決して気づくことのなかった世界。

 

人生どうにもならないことが積み重なり過ぎると、とりあえず我慢して淡々と処理していく習慣がついてそのうち我慢とかの感覚もなくなってしまうものですが、それってやっぱりどうしても辛いんよなぁ。

 

辛いことを辛いと捉え続けられる強さがないと、いずれつぶれてしまうと思うので、そのための練習として、私は最近こういった習慣を取り入れています。

 

 

「失った分だけ新しいことが」と言うけれど

新しいことが手に入らなかったら、失って落ち込んだことに意味はないのでしょうか。

失うべくして失ったのなら、断捨離としてスッキリしてさっさと次に行くことが健全なのでしょうか。

 

私は立ち止まったり振り返ったりする時間や痛みを捨てたくないと思っています。

美化のし過ぎは良くないけれど、検証不足や自分とはちがう視点を切り捨てたまま次に向かうということは、どうにも似たことを繰り返すだけになってしまうような、あるいはそれだけならまだいいけれど、中途半端に自分にトラウマを作ってブレーキをかけることにもなりかねないと思うのです。

 

強がらずに生きるって難しい。

弱さを認めるって怖い。

それでもそれ以上に、強がる人の背中を好きになれない自分がいるから、

そして私があのとき傷つけたあの人はきっともっと痛かったのかもしれないと思うから、

私は失った事実を切り捨ててまで次になんて行きたくないと思ってしまうのです。

失う前に気づけばよかったのにね。それも含めて、私だとしたら。

   

Time after time~花舞う街で~

Time after time~花舞う街で~

 

 

出会って失って、それだけでも経験できてよかったと心から言い切れるだけの器があったなら、きっと失ったりなんかしなかったのでしょう。

こんなに落ち込むほど愛せてよかったと言いたいところだけれども、愛しきれていなかったから失ったのだろうなと、ただただ振り返らずにはいられないのです。

後悔を通して、変われる私と変われない私を認識するのです。 

 

だってべつに、スッキリ気持ちを切り替えるために生きているわけじゃない。私はただ私のまま、

 

「こんなとき、あの人ならこう言っただろうな。」

 

という面影を増やしていくことが、生きるということなのだと近頃思います。

 

でもそうね、新しい出会いが全てではないけれど、面影じゃなくてずっと一緒に居られる誰かに、いつか出会って大切にできるだけの私になりたいです。