幽霊とかおまじないとか、目に見えないものというのは必ず信じる人と信じない人がいます。
どちらがいいのかはよくわかりませんが、そんなもの信じずにたくましく生きられる鈍さが現代には合っているのではないかとも思います。
しかしそんな私はわりと信じるタイプだし、実際に感じるタイプです。
いや、幽霊が見えるとかではなく、予感とか感覚とか思い入れのある品とか、そういうものに助けられることが比較的多いタイプなのです。
神様の必要性
「神様って要るかなぁ、何も助けてくれないくせに。」
そんなことを思いながらキリスト教の学校に通って毎日讃美歌を歌って、それは正直神を信じるというより周りに合わせて空気を読むという行為でした。
唯一神信仰独特の盲目的で少し強引な感じが、慣れはしてもいまいち信仰できなかったのです。
しかし私は一度だけ、そういう神様的な見えざるものに救われたことがあります。
病んでいたときおじいちゃんのお墓にお参りすることが好きだったのです。
なぜなら死人はしゃべらないからです。
生きた人に何かを言えば勝手な解釈・勝手な言葉で殴られますが、死人は何も言わないので、存分に墓石に私の勝手な解釈を押し付けて肯定感をもらった気になっていたのです。
重要なのはおじいちゃんの「お墓」であり、彼が生きていたらきっと今頃私は死んでいたと言っても過言ではないほどに、人ではなくもの言わざるなにかが当時の私を支えていました。
そしてそれは一歩間違えば怪しい世界への第一歩であっただろうとは思うのですが、人間はときとしてそういうものが必要になるほど追い詰められてしまうことがある弱い生き物で、それを否定してもどうにもならないとも思うのです。
だから、そのときあまりにも怪しい「言葉を話し意志を持つ誰か」に導かれないように、お守りやパワーストーンが存在するのではないかと思います。
言わざるモノに自分の意思を投影して自分を信じる練習をすることは、ダイレクトに自分を信じるより簡単で良い方法なのです。
そうしてモノに込められた人の「想い」が未来を切り開く。それが風通しのいいスピリチュアルの在り方ではないかと。
だから私はパワーストーンに込められた意味に囚われすぎるのは好きではないし、それについて誰かの説明をきいたりするのも何かちがうように感じます。
自分が直感で一番気に入ったものを選んで、大切にしたらいいのではないでしょうか。
スピリチュアルは自分ではなく誰かのために
人のこと言えたような人生を生きていないけれど、自分の悩みや願いのために使うスピリチュアルはとても脆く危ないもののように思います。
目に見えないものはいくらでも勝手な解釈ができるからです。
「スピリチュアル信仰」を理由にどんどん凝り固まった独りよがりな謎の個人思想が出来上がりかねません。
けれどもそういうときだからこそ、スピリチュアルに頼りたくなってしまうのですよね・・・
だからこそ、そういう脆い人を適切に自立へと促せる人物が、これからのスピリチュアルにはより一層求められるのではないかと思います。
脆い人は、スピリチュアルなしに頭ごなしにものを言われても、傷つくだけで信じられないのです。
さいごに
ここまで書いて私が語っていることも、結局感覚に過ぎません。
私はいままでものを語るとき感覚に頼りすぎてしまい、あまり知識がありません。
けれどスピリチュアルのように、たくさんの真理や欺瞞が絡み合った見えざるものの話をするときは、やはりきちんと歴史を学んだり、先駆者の思想を学ぶ必要があるのだろうなとひしひしと感じます。
私はもの憶えが悪く勉強も苦手ですが、誰より長けるとかではなく本の考えに「触れる」ことが、感覚だけで危ない方向に暴れそうになったとき私を引き留めてくれるのではないかと思うのです。