さよならいいこ

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「人それぞれ」は思考停止のキーワードなんかじゃない

人と意見が対立したときに「人それぞれだよね」っていうのは当たり障りのない平和的解決のようで、貧しい風潮だなと思います。

賢い生き方なのかもしれないけれども。

 

「人それぞれ」

誰かを深く愛したときに、それは思考停止のキーワードなんかじゃなくて、切実な実感に変わる。だからと言ってどうにもできなかったとしても。

 

ことあるごとに、自分が正しかったのか、相手が正しかったのか、そもそもその判断基準は誰なのか。

自分を中心に物事を考えることができたとしたら、その「自分」って一体なんなのか。

 

愛した人たちからたくさんの影響を受けて、それが良くも悪くもあったとしても、そのとき私が主張してきた「自分」って、身の回りに影響を受けた一瞬一瞬でしかなかったなと感じるのです。

 

だから頑なすぎる誰かの主張を見ても、面と向かってそれを指摘するのをやめることにしました。

「人それぞれ」だから。

自分を頑なに守って、その瞬間から「自分」が始まるのならそれを止めてはいけないし、そこから永久に出られないとしても、私の指摘はたいてい本人を連れ出すほどの力はないのです。

 

自分の言葉でものを言える人に影響を受けて、憧れて、私もそうなりたいと考えてから、下手にブログを書けなくなりました。

 

自分の言葉でものを言うには、起こるすべてを自分の心でしっかりと受け止めて、周りに惑わされてはならないと感じたし、揺らぐ自分を認めざるを得なかったし、それでは私がこれまでブログを通して実現したかった当時の「自分」なりに考えていた強さとか正しさってなんなんだろうと、すべてが白紙に戻された気がしたのです。

 

人それぞれだよね。人それぞれだよ。

それでも私が物を発言して、誰かに届ける意味って、表現ってなんだろう。

それでも発したいことがあるほど、私は大した人生送っているんだろうか。

 

かつての私にとってのブログ表現は自己表現で、自己主張で、でもそれは今思えばそのときの小さな一瞬に過ぎなくて、その一瞬一瞬の積み重ねを「私らしい」と言ってもらえて、嬉しいようで何かちがうような気もしました。

 

人それぞれだよね。人それぞれだよ。

ことあるたびに誰かとすれ違ったことを思い出して、そのたびにそれが今の私を変えてくれたり、逆に揺るぎないものにしてくれたりするのです。

 

だから誰かを思い出したとき、どれだけそれが悩んで辛いものであったとしても、私は「人それぞれ」を思考停止のキーワードになんかしたくない。

だからといって何ができるわけじゃなかったとしても。

 

sakenominimal.hatenablog.com